私の読書習慣は元々ビジネス書や専門書が中心で、小説はほとんど読んでいなかった。
その習慣が変わったのは5,6年ほど前で、社畜生活でのストレスが酷くメンタルを病み始めた頃だった。プライベートでビジネス書を読む余裕がなくなり現実逃避の意味合いで小説に手を延ばし始めた。
ただ、メンタルに余裕がないと文字を追うこともままならないもので、多くの小説は読みきれずに断念。そんな中でも、伊坂幸太郎の小説は全般的にのめり込んで読み切ることができた。
伊坂氏の小説の魅力として「伏線回収の凄さ」等がよく聞かれるが、私に取っての一番の魅力は登場人物が発する言葉が心を軽くしたり前に向けてくれるものが多い、ということ。だからこそ病みがちなメンタルでも読み切ることができたのだと思う。
最近も心身がお疲れ気味だったこともあり伊坂作品が久しぶりに読みたくなって、手に取ったのが「グラスホッパー」。せっかくなので簡単な作品紹介と、社畜の心に響いた作中の言葉を3つ取り上げる。
あらすじ
「復讐を横取りされた。嘘?」元教師の鈴木は、妻を殺した男が車に轢かれる瞬間を目撃する。
どうやら「押し屋」と呼ばれる殺し屋の仕業らしい。
鈴木は正体を探るため、彼の後を追う。
一方、自殺専門の殺し屋「鯨」、ナイフ使いの天才「蝉」も「押し屋」を追い始める。
それぞれの思惑のもとに──。
「鈴木」「鯨」「蝉」、三人の思いが交錯するとき、物語は唸りをあげて動き出す。
主要登場人物
本作は、以下3者それぞれの目線で交互にストーリーが展開されていく。
鈴木
元教師。非合法活動を生業とする会社「フロイライン」の社長・寺原の息子に妻を殺害され、その復讐のためにフロイラインに入社。良心と葛藤しながらも薬物販売などに手を染めつつ復讐の機会を狙っていたものの、ある日、寺原の息子が交通事故で死亡する場面に遭遇。この事故が「押し屋」と呼ばれる殺し屋によるものだと睨んだフロイライン社員・比与子の指示により押し屋を追跡、自宅を特定し身分を偽り接触。しかし押し屋とその家族との交流で情が生まれたこと等から比与子への報告を拒否して居場所を隠す。このことが引き金になり、自身がフロイラインから狙われることになる。
鯨
ターゲットをマインドコントロールにより自殺に追い込む「自殺専門の殺し屋」で、大柄な体躯であることから「鯨」と呼ばれる。政治家など要人からの依頼を受けての殺人を生業としているが、最近は殺害した者の亡霊が現れるようになり現実と夢の境界が曖昧になるとともに、亡霊等との対話の中で、過去を精算し人生に決着をつけることを望むようになる。以前に殺人を依頼された政治家から証拠隠滅のために命を狙われていることを知り、その実行犯でもあった「蝉」との対決をきっかけにして、過去の清算に向けて踏み出していく。
蝉
ナイフの使い手。鯨と同様に殺人を生業としており、俊敏な動きでよく喋ることからビジネスパートナーである寺西から「蝉」と呼ばれている。殺人の依頼先やターゲットの情報などは寺西が管理し、自らは寺西から指示を受けて殺人を行う実行犯。自分が何のために殺人をしているのかも知らず「寺西の操り人形」と化している状況に疑問を抱いている。そうした中、寺原の息子を殺害した押し屋の存在が殺し屋の業界で話題になっていたところ、寺西の指示ではなく自らの手で押し屋を見つけ殺害することで寺西と決別し自由を得ることを望み、押し屋の居場所を知る鈴木に関する情報を集め始める。
社畜に響く言葉①:「やるしかないじゃない」
最初に紹介するのは、鈴木の妻の言葉。
「やるしかないじゃない。扉があったら開けるしかないでしょ。開いたら入ってみないと。人がいたら話しかけてみるし、皿が出てきたら食べてみる。機会があったら、やるしかないでしょ。」
いつも彼女は、穏やかに言ったものだった。
この、鈴木の妻の言葉が、本作のストーリーの中心になっている。
実質的な主人公である鈴木の行動は全て、この言葉に後押しされているから。
妻の復讐を「やるしかない」と胸に秘めて非合法活動に手を染めていく。犯人である寺原の息子が押し屋に殺害され復讐が果たせなくなった後も、押し屋と家族を守るために自らの身を危険な位置に進めていくなど、妻の言葉を背景とした鈴木の行動がストーリー展開を作っていく。
鯨も蝉も同様に未知の世界に進んでいく。鯨は自らが殺害した者たちとの対話を通じて過去を清算するために。蝉は寺西との関係から自由を手に入れるために。その中で、鈴木が起こした大きな流れに引き寄せられるように3人が関わり出す。
社畜生活も、日々「やるかやらないか」の選択が続く。穏やかに発せられる鈴木の妻この力強い言葉は、人生について深刻にならず軽快に前を向く力を与えてくれる。
社畜に響く言葉②:「たまたまこうなった」
続けて、こちらも鈴木の妻の言葉。
「不安になったり、怒ったりするのは動物的だけど、原因を追求したり打開策を見つけようとしたりくよくよ思い悩むのは人間特有のものだと思うよ。動物に「どうして生き残ったんですか」って尋ねてみてよ。絶対にこう答えるから。「たまたまこうなった」って。
そう、人生は「たまたま」なんだ。
そう捉えると、組織のしがらみや人間関係、お金や地位など社畜として共通の尺度の中で生きざるを得ない、という思いに囚われてしまうけど、そもそも人生はたまたまなんだから、その尺度の中で生きるにしても、それは自分を完全に拘束するものでもない。
義務的に社畜に縛られているのではなく、たまたま生きている中で選択肢の一つとしてその生き方を選んでいるだけ。そう捉えられたなら、現実が変わらなくても気持ちは変わる。
社畜に響く言葉③:「生きてるみたいに生きる」
全ての死線を乗り越えた後、本作最終盤の鈴木の言葉。
生きようと思うんですよ。いろいろ考えたんですけど。でも、せっかく生きてるのに死んでるみたいだと妻に悪いじゃないですか。やっぱり生きるためにはたくさん食べないといけないじゃないですか。だからたくさん食べようと思うんです。僕は全部食べてやる。生きてやるからな。僕は、生きてるみたいに生きるんだ。
本作を初めて読んでから何年経っても、この言葉に心は抉られ続けている。社畜である自分にとって「生きてるみたいに生きる」とは何なのだろう、と自問自答を続けてきた。
「死んでるみたいに生きる」状態が、社畜としての人生を義務的に、心をすり減らしながら生きている状態なのだとすれば、「生きてるみたいに生きる」とは、心身の健康を保ちながら能動的に社畜を選んでいる生きている、ということ。
会社を辞めて世界一周の旅に出るようなわかりやすい変化はなくても、自分が身を置く環境下でどうやって生きてやろうか考えること。それが「生きてるみたいに生きる」ことのスタート。現時点では私はそう考えて、社畜生活を日々続けている。
社畜が想う(まとめ)
改めて、伊坂幸太郎作品には社畜の心に響く言葉が多く、再読しても心が晴れていく。
また、このグラスホッパーは2015年に映画化もされている。キャストのイメージが原作に近く、個人的には好きな作品。また、エンディングテーマ曲である「tonight/YUKI」も良い。「優しさを持って 悲しさを持って生きる だから私は強いの」という歌詞は、本作における鈴木のことを現していると感じられる。
なお、映画は、Netflixで現在も視聴可能の模様。
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