正しさの押し付けからは逃げてもいい、けれど。

社畜生活

社畜として集団生活をしていると、「自分の考えが絶対に正しいと譲らない人」に遭遇する。組織や上司の命令に従うことは絶対に正しいという常識は、社畜組織の中では当然のものとして存在する。また、時に自分自身もそういう思想に感化されて自分の考えが正しいと信じて相手に接してしまうこともある。

最近は「正しさ」への執着については否定的に評価される向きが強くなっていると感じる。「正しさ」の定義の仕方にもよるが、正しさを「事実に合っていること」と捉えるのならば、そもそも正しさへの執着の良し悪しの評価以前に、前提として無理があると理解することが重要だと考える。

正しさの「正しくなさ」

そもそも人は正しいと判断するために必要となる事実の全てを認識することはできない。あらゆる事実を認識することができないのならば、正しさに到達することができない。また、一般に正しいものとして整備されている法律や各種規則等も人間が作ったルールである以上、ルール整備過程において多数決の仕組みが導入されているケースが多いだろうし、少数意見や事実等を全て掬いきれているとは限らない。自己認識についても同様で、認識できない事実は存在しないことと同義であり、自分が考える正しさとは、自分が認識できない事実を除く事実を元に判断されている。

だから、他人や社会からあたかも「これが正しいことだ」と押し付けられることに対して自分が息苦しく感じるならば、そこからは逃げることも選択肢に置けばいい。それは絶対的に正しいことではなく、正しいものらしいとして形成されたものに過ぎないから。多くの場合において、嫌なものや苦しいものに目を向けて身を置いている状況は「それに従っていることが正しいこと」という自分自身の思い込みや押し付けに支配されているだけで、そうした思い込みも押し付けも、正しいものとはいえない。

一方、嫌なことからは逃げていいとはよく言われるものの、何となく逃げずに身を置き続けてしまうという状況も起こり得る。私自身はそのような現状にあり、この理由の一つには、逃げたところで他に目を向けたいものもないから、という課題がある。大事なのは、逃げることとセットで「逃げた先に辿り着きたい場所や道」を見つけ出すことではないかと感じている。

以上をまとめると、自分の人生をより幸福感を持って生きるには、全てのことを知ることはできないし、整備されたルールも絶対的に正しいものではないという「正しさの正しくなさ」を念頭に「正しさに執着せず、何を見聞きしてどう感じたいかを自分で選び取る」ことが重要になる、ということ。

社畜が想う

社畜として不本意な状況などに追い込まれることも多いし、上司からは組織への忠実さが有言無言の形で要請されてそれが当たり前に感じがちになるけれど、「嫌なことからは逃げる」ことも選択肢の一つであることは忘れずにいたい。一方、わかっていても逃げにくい理由として、逃げた先に自分が目指す別の道が見つからないことや、仮に道が見つかったとしてもそれが茨の道なのではないか、という不安もある。

ただ少なくとも、上司などからあたかも正しげな形で要請されることに何の疑いもなく従っているより、それは正しいことではないという前提を持って、自分が目指したい別の道を探るという姿勢は、自分の人生を生きるためにも必要な思考回路ではあるはず。

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