絶望を知っているからこそ希望が生まれる

雑記

何の変哲もない、とある田舎道の写真。

この日は激しい豪雨が降っていたが、雨が止んで陽の光が差し込んできたところだった。

この時の私は車を運転していて何となく不安な感情に襲われていたのだが、この光景を見て何だかグッときてしまい、思わず車を停めて写真に収めたのだった。差し込んできた光が、暗い空と雨の影響で現れた根拠のない不安を打ち消す希望の光ように思えたから。

雨が降らない世界を想像してみる

雨の日が続くと何となく憂鬱な気分になる人は多いのではないか。梅雨の時期のたまにの晴れの日にはそのありがたみを感じることができる。晴れが続いた後の雨の日もまた然りだが。

では、もし雨というもの自体がなければ憂鬱も無くなるのだろうか。気候変動がなく、ずっと晴れの日のみが続く世界。

晴れが当然の世界線であれば、良くも悪くも天候によって気分が左右されることはないのかもしれない。それは、天候に起因する不安はない一方で、晴れというもの自体にありがたみを感じることも難しいということ。

物事の価値は「相対化」から生まれる

天気という概念として晴れの他に雨や曇り、雪などの多様性があるからこそ、それらと比較することで晴れのありがたみを感じることができる。つまり、物事の価値は相対化により生じるということ。

絶対的・唯一無二のものであれば、それがどれだけ価値あるものであったとしても、気づきにくいものだろう。その存在が当然のものになるのだから。

絶望は希望を味わうためのスパイス

人のメンタルについても同じことが言えるのではないか。つまり、私が雨の中の晴れ間の光景を見て希望を抱くことができたのは、その反対概念として絶望という状態があったから。

毎日が希望に溢れている人生は一見幸せそうに見えるけど、仮にそのような人生を歩むことができたとしても、そこで得られる希望の存在に気づくことはできないのかもしれない。

そう考えると、不安や絶望も希望を持つためのスパイスとして、あっても悪くない。

社畜が想う(まとめ)

できれば避けて通りたい職場での絶望的なシチュエーションも、その先に希望が待っていると信じられれば、耐え忍ぶことができる(かもしれない)。

未来永劫の絶望など、存在しない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました