「苦しい時こそ今を見ろ」というけれど、『今』って何なのか?

過去を悔やんでも変えられない。

未来のことを想像しても不安になる。

だからこそ、今を見ろ。

精神的に苦しい時にこのようにアドバイスをされることは多かったし、この言葉に救われたこともあった。言わんとしていることは理解できる。

だけど、分かっていても先のことを考えて暗くなってしまうこともある。それは、見るべき「今」がよくわからない状態に陥っている状況ともいえる。

心身が健全な時には、仕事でもプライベートでも目の前のことに熱中できる元気があって、これがまさに「今が見えている」状態なのだと思う。

一方、精神的に疲れている時、特に時間を持て余した休日には何もする気が起きずにぼーっと寝っ転がることしかできず、かといって頭は過去の後悔や未来の不安がグルグルして、結局休まっている感じもしない。

こういうメンタル不調の時を「今が見えていない」状態なのだとすれば、こういう時に何らかの「今」を見出し心を軽くできないか、考えてみた。

先日、とあるお寺の座禅体験に参加した。

最近はマインドフルネスの手法として座禅に注目されているから、健全なメンタルを保つためのヒントを得られないかと期待して。

そこでは、お坊さんの法話を聞いたり、お寺の境内をゆっくり歩いてみたり、座って呼吸に集中するなどを行った。

お坊さんから、一つアドバイスがあった。

それは、ただ歩いたり呼吸をしたりということではなく、一つひとつの行動に意識を置いてやるように、ということ。

ここでいう「一つひとつの行動に意識を置く」とは、例えば歩くのであれば、「歩く」ということ自体に意識を置くのではなく、歩くことに付随する個々の動作である「足を上げる」「前に出す」「下ろす」ことに意識を置く、ということ。

同様に「呼吸」であれば「息を吸う」「止める」「吐く」を意識する。

当然、足を上げ、前に出し、下げるそれぞれの動作に伴い、太ももの可動部分の筋肉の動きを感じる。すると、可動部分に自ずと意識が集中した。

この体験から、「見るべき今」を捉える上で示唆を得られた気がした。

今を見れない時は、行動の細分化に徹する

「歩く」「呼吸する」という言葉は、人間の行動を抽象化してラベリングしたものに過ぎない。

「歩く」という抽象的な概念を、「足を上げる」「下げる」という自分の体の動作として捉えられるレベルまで細分化することで、実際の動作と言葉が一致する。

そうして動作と言葉のレベル感を一致させることで、初めて自分が取っている行動に集中することができるのではないか。

今を見出して苦境を脱するために

熱中できる「今」を求める元気ない時には、意識を内側に向けて自分の行動を体感レベルまで細分化してみることが「今を見る」ことのきっかけになる。

そして、辛くて何もしたくない時にも手近にできる「歩く」「呼吸する」といった行動は実践がしやすい。

どうせ色々と考え込んでしまうなら、外の要素を気にするばかりでなく、自分の今の状態を、深く深く掘っていく。

それで多少なりとも不安な状況を脱することができるなら、この上ないことだ。

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