仕事に失敗した、上司から激詰めされた、理不尽な扱いを受けた。。。
何故かこうした出来事が集中し、精神的にキツくなる日があったりする。
こういう日には、仕事が終わって帰宅後にも、キツかった出来事を反芻して何とも言えないモヤモヤが頭から離れなくなる。その影響で食事が喉を通らなかったり、寝つきが悪くなったりすることもある。
こういうモヤモヤに歯止めをかけてプライベートの時間を少しでも健全に過ごしたい。そのために何をすればいいか、考えてみた。
何かと比較して不安の形を明らかにする
モヤモヤした物事の形を捉えるときは、別の何かと比較して相対化することが有効だと思う。
よくある例としては、他人と自分を比較することだろう。
人の不幸は蜜の味、と言う。
いやらしい話ではあるけれど、周りの人より自分が優位に立っている状況に身を置かれた時に安心感を覚えることは否めない。
これは、他人という比較軸で自分を相対化することで、見えにくかった自分の立ち位置が明らかになるからだと思う。
しかしながら、他人との比較を続けていても究極的な安心は得られない。星の数ほどの人々が生きている中で他人と自分を比較し続けても際限がないし、そもそも、人生における価値観は人それぞれで一人ひとりが個別の絶対値を持っているから。
その前提で人同士を相対化して測ろうとするのは本質的にナンセンスであって、その認識がある限り、どれだけ他人と比較しても心のどこかにモヤモヤは燻り続ける。
過去の自分と比較する
そこで、比較軸を他人ではなく過去の自分に置いてみる。
ここでの意味は「昨日の自分より今日の自分は成長する」といった前向きなものというより、過去に苦境に置かれていた自分と現状を比較するということ。
私も、仕事のストレスで何も食べられず、お風呂に入れず、眠りが浅く深夜に目が覚めて布団の中で悶々と過ごしそのまま翌朝に出勤していた時期があったが、この時の記憶は今とても役に立っている。
今も仕事で追い込まれて辛い時間はあるけれど、それでも食事ができたり、風呂に入れたりといったことができたのならば、少なくとも過去の自分と比較してまだ余裕があることが確認できるから。
この確認ができると、辛いことには辛いけど「あの頃より状況はマシだしまあ大丈夫だろう」と今の自分が相対化できて、安心感を得ることができる。
辛い経験は、未来の自分へのモノサシにする
そもそもキツい状況に身を置きたくないとは思う。だけど、時にはそういう日も訪れるだろう。
キツいことをただのネガティブな出来事としてだけ捉えるのでは勿体無い。せめて、未来の自分が同じような状況に追い込まれた時に、そのキツさを測るモノサシを得たのだと捉えてみる。
様々な長さのモノサシを手に入れることで少しずつ強くなれることを期待すれば、一時のキツさも悪いことばかりではないと思えてくる。
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