【心理的自由】心まで肉体と同じ制約を受ける必要はない

名言

元陸上競技400mハードルの選手でオリンピアン、世界陸上メダリストでもある為末大氏。「走る哲学者」ともいわれる同氏のツイートは個人的に惹かれるものが多い。下記は4年近く前のものだが未だに私の心に響いている。

為末氏のこのツイートで示されている「①辛い出来事があった」と「②私が辛いと思った出来事があった」という2つの言葉の違いは、自分を客観視できているかどうかの程度の違いだと私は理解している。言葉を変えると、①は「自分の肉体と心を一体として捉えている状態」で、②は「肉体とは別の存在として自分の心を捉えている状態」という違い。

肉体と心は同一のものか、別のものか?

人間の体は物質であることによる制約を受ける。社畜であれば、職場と自宅を往復移動中心の生活に嫌になったからといって突然南国リゾートへ瞬間移動することは物理的にできない(然るべき手段で行くことはできるけど)。そして、肉体と心を同一のものと捉えることは、心も体と同様の制約を受けるということを意味する。

だけど、心は肉体と違って物質ではなく観念的なもの。だからこそ捉え方の自由度は相対的に高く、物理的な制約を受けるとは断定し難い。だったら、肉体が制約を受けるからといって自動的に心まで同じ制約を受けるのではなく、心を体と別物と捉える。そんな発想を持ち、せめて心だけでもより自由でありたい。

社畜の感想

悩んだ時に「何をするか」と考え込むと深刻になってしまうけど、「自分の体を何に使おうか」という、体とは別の主体として心を持つようなイメージで向き合えたら、与えられる自由度が増える印象が持てる。

まあ、これは単なる言葉遊びなのだろう。だけど、言葉遊びであろうがそれで少しでも心が楽になる可能性があるなら、それでいい。お疲れ気味の社畜にとって大切なことは、理屈よりも心が楽になることだから。

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