スタジオジブリ最新作の映画「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。
私は子供の頃からジブリ作品に親しんできたが、今作については公式からの事前情報が一切出されていなかったことから、そもそもこの映画の存在も知らず、たまたま公開されたことを知り「それなら観に行くか」くらいの気持ちで映画館に足を運んだのだった。
本作の原作本である「君たちはどう生きるか(吉野源三郎著)」の漫画版が数年前に流行し、私もその存在は知っていたので、本映画も漫画版の内容に沿ったストーリーなのかな、という程度の期待で鑑賞したところ、そうではなかったという意外性に加え、宮崎駿作品の特徴ともいえる抽象度の高い表現で伝えられるメッセージが上手く咀嚼できず、鑑賞後も自分の中で処理し切れずにいた。
アウトプットを前提としないインプットは脳の負荷になる
人の思考作業は、意識的にも無意識でも様々な情報をインプットして、それを元にアウトプットをすることの繰り返しだと捉えられる。例えば映画鑑賞を例にしても、約2時間の映画を観ることがインプットだとすれば、鑑賞終わりに誰かと感想を言い合うことはアウトプットになるだろう。
私はインプットされた情報は自分の脳を経由して何らかのアウトプットに変わるまでが一連の流れだと考えていて、インプットされた情報がアウトプットされない状況は、情報が脳に蓄積されて脳に負担がかかるイメージを持っている。
映画「君たちはどう生きるか」については、私が前情報を全く入れずに何となく観に行ったこともあり、自分の中で上手く咀嚼してアウトプットができず、宮崎駿ワールドの抽象的な情報が頭に留まっているような感覚に囚われてしまった。
この感覚から、社畜生活に取り入れたい「2つの作法」に気づくことができた。
社畜の作法①:アウトプットありきでインプット情報を選び取る
「君たちはどう生きるか」に関するこうした体験から「アウトプットを前提にしてインプット情報を選び取る」ことの重要性を感じた。
様々な情報が飛び交う中で受動的に情報の波の中に身を置いてしまうことは、無意識であれ脳に負荷がかかるストレス状態なのではないか。そこから逃れるには情報の選別が必要で、情報を選別する方法として、アウトプットとして脳から取り出すことを前提にそれに繋がる情報のみを選んでいく、という姿勢を持つ。
よく「受動的ではなく能動的に情報収集をすべし」と言われるが、これはつまり「アウトプット前提に情報を選び取ること」だと言い換えることができる。
社畜の作法②:聞かれていないことまで話さない
対人関係でも同様で、相手のストレスになるインプットを与えることは避けたい。
このことに関する社畜あるあるとして、上司に報告する場面や同僚から質問を受けた場面において、聞かれてもいないことまでつい答えてしまう、ということがよくある。
これは「自分の知ることを伝えたい」という親切心等から出るものであるだろうが、相手からすれば、相手が目指しているアウトプットとは関係しない情報をインプットされた、ということ。これは相手にストレスを与える原因になる。
余計なストレスを与えて人間関係を拗らせないためにも、聞かれていないことまで答えようとすることは避けたい。
社畜が想う(まとめ)
以上、「君たちはどう生きるか」の映画からの社畜生活に繋がる気づきについて綴ってみた。
なお、文字面だけだとこの映画を反面教師的に扱っているが、映画自体は面白く見ることができた、ということは申し添えておく。
公式情報が一切出ておらず何を書いてもネタバレになってしまうため内容の記載は避けるが、個人的には、本作が伝えたかったことは「現世界は理想的ではなく美しいともいえないが、それでも生きてゆけ」というメッセージであったと理解している。
このメッセージを胸に秘め、グレーな社畜生活を泳いでいきたい。
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